この記事はセキュリティ Advent Calendar 2021 - Qiitaの19日目です。
アラフィフになった記念と、再就職1周年記念に、セキュリティエンジニアとして生きてきた半生を振り返ってみたいと思います。 別に面白くもないし参考になる話もありませんが、この歳で女でセキュリティエンジニアをやっています、というだけでも珍しいだろうと思って書きました。
幼少期〜就職まで
女性のこの手のエントリを見ると、割と幼少期から女性であることを理由に理系に進むことをよしとしないような圧力を受けている人が多い印象ですが、私は幸いにもその手の圧力はありませんでした。これは東京で育ったというのが大きいのかな。親戚関係でも、父方の祖母は薬剤師、母方は古くからの商売人で曽祖母の代から大学か短大に行っているため、性別と学歴を結びつけるような考え方をする人がいなかったのだと思います。高校は「影の四年制」(現役合格は少なくて予備校に入るのがデフォ)とか言われながらも進学校だったし、共学だったので、女だから大学には行かないとか考えたこともなかった。「女性が」ものを学ぶということを初めて意識させられたのは、大学に入ってから、学外で知り合った人たちに「なんで女なのに四大に行ってるの?」「自分は専門学校しか行かせてもらえなかったので羨ましい」と言われた時でした。まあ、それまでも何かあったのかもしれませんが、いろいろとにぶい人間だったのだと思います。そういうことを言われて驚いたというだけで、その後の人生に特に影響はありませんでした。
大学はCS専攻でしたが、勉強しないで遊んでばかりいました。ただ、将来を決める出来事がありました。私、エアロスミスが大好きで、ある年の春に来日が決まったのを前の年の夏に知って、「あ、英語勉強してスティーブンタイラーが何言ってるのかわかるようにしないと」と思い、大学の秋休みを利用してカナダに語学留学に行ったんです。で、外国って面白いんだなあというすごくざっくりとした印象を受けて、次の年に休学して最初の半年間バイトしてお金を貯め、後の半年間アメリカに語学留学することを決めました。この辺の思考回路は今の私にはよくわかりませんが、20そこそこの私には何かちゃんとした考えがあったのだと思います。
で、ある年の9月、アメリカのボストンに行きました。もちろんエアロスミス発祥の地です。
本当はそこで半年間語学学校に通うつもりでしたが、クラスメートの女の子が一人旅に行くというのを聞いて、「あ、私も行こう」と決めました。これはまあまあ理由を覚えていて、まず語学学校がつまらない。あとせっかく広いアメリカにいるんだからいろんなものを見てみたい。語学学校は2ヶ月で辞めて、グレイハウンドバスでニューヨークに行ったのを皮切りに、途中途中でホステルに泊まってサンディエゴまで、アメリカ横断一人旅をしました。その過程で、Hotmailで日本の友人とリアルタイムにやりとりできるとか、グレイハウンドバスの時刻表を一瞬で調べられるとか、インターネットの凄さを何度も実感させられました。
新卒でネットワークセキュリティの会社に就職
アメリカ横断一人旅の終盤、就活について考え始め、インターネットみたいにすごいものはいつまでも自由に、安全に使えるものであって欲しいという願いから、ネットワークセキュリティの会社に就職しようと決めました。リクルートの就職サイトができたばかりの頃で、「ネットワーク セキュリティ」というキーワードで検索したら、警備会社ともう一社のみ引っかかり、その会社に応募しました。2000年に就職という、就職氷河期の谷底でしたが、アメリカを放浪して英語が話せるようになっていたことと、インターネットの凄さ、それを守りたいという青臭いながらも明確な正義感を熱く語ったのがウケたのかもしれません。無事内定をいただき、社会人人生が始まりました。
黎明期だったため、いろいろな仕事が降ってきました。サーバ構築と要塞化、FW構築、脆弱性探しとシェルコード書き、セミナー講師、コンサルティング、あらゆることを短期間に一通り経験しました。毎日のように終電のゆりかもめで帰路につき、レインボーブリッジから東京タワーが消灯するのを眺めたものです。若い頃はそういう忙しい自分が面白かったりするんですよね。周りも大体同じ感じだったし。人には全く勧められませんが、この濃ゆい数年間でセキュリティの基礎を叩き込まれたことが、アラフィフでもセキュリティ業界で働いている原動力となっています。生存者バイアスですけれども。
青年海外協力隊
新卒で入った会社で数年働いて、なんとなく海外に住みたいとか稼ぎを気にせずIT教育がやりたいとか思い出して、青年海外協力隊に参加することにしました。なんか色々ドラスティックなことをしている割にきっかけが軽い。
青年海外協力隊というと、井戸を掘っているという印象がある人が多いかと思いますが、IT教育やシステム開発といったことをする「コンピュータ技術」という職種がありまして、それをやろうと応募しました。どうせ行くなら後々使えそうなフランス語かスペイン語圏で、でもアフリカは遠すぎるから中南米で。いや中南米も十分遠いんですけど。
で、無事合格しまして、エルサルバドルの工業高校でLinuxを教えることになりました。これも話すと長くなるしセキュリティとは関係ないので興味がある方はこちらをどうぞ。
脂の乗った時期
帰国後は半年近く国内外をフラフラしていて、国際協力の方に行きたい気もしつつ、でも他にできることもなく、セキュリティ業界に戻り、Web診断の会社とサイバー大学のTAを兼務しました。どちらも半年ほどしかいなかったのですが、そこでたくさんのセキュリティエンジニアと出会いました。ほとんどの方が、今でも最前線で活躍しています。中でも、結構大きなセミナーの案件でご一緒した方には、コンテンツ作成を通して、当時は悪名高かったでかいリボンが初めて実装されたWord2007の使い方をたっぷり教えていただきました。そのとき得た技術は、今でも重宝しています。
その二つの仕事の後は、正規雇用でセキュリティ関連の法人に入職しました。そこではガリガリとマルウェア解析をしたり結果の傾向を分析したりと、セキュリティエンジニアとしては最高に脂の乗っていた時期だったと思います。ただ残念ながら、自分には決定的に合わないIRっぽい仕事をアサインされてしまったばかりに、そしてそれを無理だと言えなかったばかりに、体を壊して退職することになってしまいました。
これは本当に手痛い教訓で、壊れてしまう前に無理だと言えば、組織は正職員を失うこともなく、私もあの職場で今でも仕事が続けられていたと思いますが、言えなかったんですよね。当時は仕事はお金をもらって辛いことを我慢することだと思っていたし、プライベートも全て仕事に捧げられる状況だったので。で結局、組織にとっても自分にとっても最悪の結果になってしまった。 結局ほんの数年しか働けなかった職場ですが、そこで生まれて初めて自分の文書作成能力をはっきりと評価されました。最初の会社では言葉で評価されるようなことはなかったし、自分の能力には全く自信がなかったため、とても嬉しかったのを覚えています。
地に足のつかない日々
仕事を続けることができず退職してしまいましたが、治療するうちになんとか回復してきました。で、辞めた職場が東京だったし地元でもあったのでそのときは東京に住んでいましたが、ふと「あれ、もう東京に住む必要なくね?」ということに気づき、そしてそんなタイミングで母校が契約職員を募集しているのを見つけてしまい即応募。即合格。即引っ越し。病気だったとは思えない行動力。母校は森の中にあるので、通うだけで心も身体も癒される日々。仕事はそれなりに難しく、なによりITとは全く関係のない、イベントの設営をするような仕事だったのですが、なかなかにうまくいって、各方面から褒められたので、「あ、なんかまた働けるかも・・」と思った矢先に東日本大震災があり、また無職となりました。
その後ポリテクに通ったり派遣社員をやったりとまたフラフラしていたところ、たまたま知り合いから、つくばの研究機関のセキュリティ部門で契約職員を募集しているということを教えてもらい、そこに就職。契約職員にもかかわらずファーストオーサーとして論文を書かせてもらったり、協力隊時代の教え子が通っていたコスタリカの大学でのLinuxカンファレンスの基調講演をしに行ったり、いろいろとやらせていただきました。そこでも文書作成能力が高く買われ、IPAのドキュメントを作らせてもらったりもしました。プライベートでも、CTF for Girlsでの講師やオライリーの翻訳など、いろんなところに顔を見せました。そんな中、病気で辞めてしまった組織の偉い人と再会し(業界が狭いので当時の同僚が知り合いだった)、そちらからも業務委託で在宅の仕事を回してもらったりもしました。この時に改めて「あなたの文書作成能力は、前ほど早く作れなくなってしまったとしても、必要とされる場所は必ずあるはずだ」と言われ、ここでもう自分の文書作成能力について謙遜するのは辞めました。私にはその能力がある。変に謙遜するとあの人に対しても失礼だと思うようになりました。
・・・と、充実はしていたのですが、メイン業務の研究機関は所詮は契約職員で長く働けないことは決まっていたのと、結婚したこともあり、一旦ちゃんと考えようと、研究機関を辞めることにしました。業務委託の方は続けるつもりだったのですが、退職直後に妊娠が発覚し、ハイリスクだったためそちらも辞めて出産時には完全なる無職に。妊娠も出産も出産後も本当に大変で、でもまあそれは夫と子供という他者が関わることなので細かくは書きませんが、出産後は半死半生状態で、とてもじゃないけど働けるような状態ではなくなってしまいました。
業務委託で社会復帰
数年かかりましたが、体調がなんとか回復してきて、ブログでも書くかと久しぶりにいろいろ調べて書いた記事がきっかけとなり、業務委託の話が舞い込んできました。内容は、ざっくりいうとセキュリティの仕事をしている人たちに話を聞いてそれを記事にするような仕事で、とても楽しかったし、昔一緒に仕事をしていた人と再会できてとても良い刺激になりました。ほぼ同時に、オライリージャパンの翻訳の仕事も始めました。このままフリーランスとしてゆるくやっていくのもいいのかなあとも思いましたが、やはり替えのきかない業務委託の仕事は体調的に難しく、というかまた倒れて仕事を全部投げ出すことになりそうなのが嫌で、特に新たに仕事を取ってくるようなことはせず、翻訳作業を細々と続けながらpwnableなどをやって過ごしていました。そこに新型コロナがやってきて、いろんなことが止まってしまいました。諸々乗り越え、2020年の夏、いよいよ今の会社に勤めるきっかけとなった就活を始めます。
就職活動
業務委託の仕事をしているうちに、セキュリティの仕事をもう一度ちゃんとやりたいという思いが再燃しました。学生時代に感じていた青臭い正義感はまだ消えておらず、というか子供ができて、セキュリティの仕事をすることで子供の未来が少しでも良くなるならこんなに嬉しいことはない、という新たな意義が加わりました。そして、私はやはり、業務委託のような形で一人で仕事をするのではなく、組織の一員として働きたい。あわよくば後続を育てたい。
そんな思いを募らせているところに、企業への出社自粛要請が出ているというニュースを見て、「これはひょっとしてフルリモートで企業に勤められるチャンスなのでは?」と思い至りました。
体調的に電車通勤は全く考えられず、というかすでに年内に茨城に帰ることを決めていたことから、東京の会社で働くことは完全に諦めていましたが、今ならフルリモート前提でも雇ってもらえるところがあるかもしれない。そう思って、まずはLinkedInのステータスをOpenToWorkにし、ハッカー協会に登録しました。で、連絡を待ちつつ昔勤めていたところに連絡してみるかと思っていたら、登録した次の日にハッカー協会から「ここどうですか」と連絡が来ました。はいはいと二つ返事でOKして、慌てて書類を作りました。
慌てて、といっても、職務経歴書は慎重に作り込みました。人材不足のセキュリティ業界とはいえ、もうアラフィフ目前、これがまともな条件で雇ってもらえる最後のチャンスであり、長く働けるところをちゃんと選ぼうと思ったからです。
40台で子持ちという同じような状況で転職したはせおやさいさんが書かれていた転職エントリのコメントにも書きましたが、文書作成能力や文章力を評価されたこと、自分自身文章を書くのが好きだったことから、「セキュリティの知識があり文章も書ける人」としてアピールできる部分のみを職務経歴書に書き、面接でも一貫してそういうストーリーを話しました。それが希少な人材であることを知っていたからです。セキュリティの知識がある人はまあまあいます。ちゃんとした文章が書ける人は星の数ほどいます。でもセキュリティの知識がそこそこあって文章がそこそこ書ける人はそうそういません。もうIRのような突発的な仕事やマルウェア解析のような終わりのない仕事はしたくなかったというのもあります。
ということで諸々武装して面接に臨み無事内定。ちなみに最終面接だけは会社で対面で、ということで一年ぶりに電車に乗って都心に行ったら一週間後に帯状疱疹になりました。虚弱にも程がある。
現在
内定直後に帯状疱疹になって会社員として働く自信が0になりましたが、なんとか一年間寝込まずにやってこられました。
中途なので任される業務はかなり難しく、やることもたくさんあって忙しくしています。業務は調査して報告書を作るようなものが主なので、望み通りになっているかなと思います。
後輩もかわいい。セクハラになりそうなので表立っては言いませんがみんなマジかわいい。
当分は後輩の市場価値を上げることと、自分が長く働けるよう居心地の良い職場を作ること、業務以外にもこの二つはやっていきたいと思っています。
後輩の市場価値を上げるためにできることとして、私の数少ないコネである翻訳業務を会社に引っ張ってきました。ブログやGithubでもいいんでしょうが、やはりまだまだ紙媒体の影響力は強いです。一冊本を出せば、強力な名刺になります。また、カンファレンスでの講演やJNSAのような団体への参加も、希望する人には資料作成の支援などして後押ししていきたい。技術的なところはすでに私よりできる人たちなので、社外へのアピールになるような実績を増やしていって欲しい。あと、私がそうされて嬉しかったように、ちゃんと口に出して褒めること。褒めどころはいくらでもあるのでこれは難しくない。そして何より、自分が持っている文書作成能力を伝えること。業務的に必須の能力なのに、研修があるわけでもOJTで教えてくれるわけでもなく、これはなんとかしていきたい。私も体系的に学んだわけではないので、人に伝えるとなるとなかなか難しいのですが、「理科系のための英文作法―文章をなめらかにつなぐ四つの法則 (中公新書)」や「ビジネス文章力の基本 ダメ出しされない文書が書ける77のルール」などの市販の本など参考にしつつ、資料にまとめて部でお話ししたりしています。この資料は大変好評で、講義は急遽研修中の新人にも参加してもらうことになったりしました。来年度はちゃんと新人研修の一部としてやりたいと思っています。
自分にとって居心地の良い職場を作るというのもいろいろやっていますが、まず何よりも無理なものは無理と言うこと、これを絶対に忘れないようにしたい。入社時に人事にも言われたんですが、「我慢を続けて辞めるよりはわがままを言ったほうがいい」。若い頃は前述の通りその気になればプライベートも全部仕事に捧げられる状況だったから断りづらかったんですけど、今は体調や家庭環境から自分のリソースが限られていて、逆さに振っても出ないものは出ないので、そこはもう申し訳ないと思いつつ調整させてもらっています。
あとは、フルリモートではあるものの雑談する場を作るとか、業務のフローをちゃんと定義するとか、細々としたことをやっています。幸いその辺は必要と認められればどんどん採用される職場ですし、規模もまだ小さいのでやりやすい。独りよがりにならないよう気をつけつつ、これからもいろいろやっていこうと思っています。
終わりに
取り留めなく書いたら長くなってしまった。まあ45年分あるんだからこんなものか。
妊娠出産時は無職だったので、女性特有の何か、みたいな話はあんまりないんですよね・・。いや、セクハラはあったし女だから不愉快な思いをした、ということはたくさんあるんですが、ブログに書いて残したくないので書きません。タイトル詐欺ですいません。一つ言えるとすれば、女性セキュリティエンジニアの皆さんは、セクハラされたら戦うのも我慢するのも時間の無駄なので転職してください。弊社も絶賛募集中ですので、なんならDMください。セキュリティ業界はいま超売り手市場です。
ではこれで。また10年後に、「アラカン女性セキュリティエンジニアが生きる道」というのが書けるよう、精進したいと思います。