6月の始めに平泉に旅行に行き、JRの震災応援バスツアーに参加して陸前高田市に行ってきました。
このツアーはボランティアをしに行くようなものではなくあくまで視察、出発も東北の新幹線の駅からで、東北に観光に来る人をターゲットにしている感じ。料金のうち500円が復興支援金として寄付されます。
陸前高田を回るツアーは、一ノ関駅→陸前高田→碁石海岸→大船渡→新花巻→盛岡というルート。なぜか行きと帰りとで着く駅が違うという。
陸前高田市は一番被害が大きかったところと言われています。行っても何もありません。このツアーは語り部さんが当時の様子を写真を使って説明してくれるので被害がどれだけひどいものだったか分かりますが、知らなければただの更地にしか見えない。
切ないほどたくさんの花が咲き誇っています。
これが駅前のロータリーと商店街があったところ。
震災前の下の写真と上の写真を比べてみてください。何もなくなってしまったことが分かります。
とにかくとんでもないほど奥まで(語り部さん曰く7〜8kmほど)津波が入り込んだことが分かります。道は特に修復していないということですが白線まできれいに残っているのは、地震そのものの被害は大きくなかったことを示しています。
地震から津波到達まで30分以上の猶予があったにもかかわらず多くの人が亡くなったのは、震災の2日前にもそこそこ大きな地震があり、津波警報も出ていたそうですが結局大きな津波は来なかったため、震災当日の大津波警報でも逃げようとしなかった人が多かったのではないか、と語り部さんが言っていました。
津波はこのビルの屋上に達しました。13m以上だそうです。
これは入り江にある小学校です。校長先生は内陸出身の方だそうですが、当日大津波警報を聞いてすぐ生徒達を屋上に避難させたため全員が助かったそうです。
そして奇跡の一本松。
そもそもここは高田松原と呼ばれ、砂浜のすぐ後ろに松林があるという美しい場所でした。
(陸前高田出身だ! 「陸前高田市・東日本大震災から一周年 10」より)
そして、一本松は当時からその名の通り一本だけ飛び抜けて高いシンボルでした。
この町は本当に当時の面影を残す物が何も無くなってしまいました。松も結局一本も残りませんでした。
レプリカであれ、一本松を当時の姿のまま残すことで、「ここには美しい松林があった」という記憶と、「いつかまたここに松林を」という希望につながってくれればいいなと思います。
一本松は枯れてしまいましたが、挿し木でいくつか育ってきているものがあるそうです。また、たまたま震災の前の年にクリスマスリーフを作るために松ぼっくりを集めていた方がいて、それを寄付してくれたそうで、そこから一本松の親戚を育てようとしています。
(陸前高田出身だ! 「陸前高田市・東日本大震災から一周年 10」より)
私も今さら初めて行った身なので偉そうなことをいえた筋合いではないのですが、もしこのブログを読んでいる人の中で被災地を見ていない人がいたならば、絶対に行くべきだと思います。これは、日本人全てが共有すべき記憶です。行かなけば分からないことがたくさんありました。