トリコロールな猫

猫とつくばと茨城をこよなく愛するnekotricolorのブログです

アラフィフ女性セキュリティエンジニアが生きる道

この記事はセキュリティ Advent Calendar 2021 - Qiitaの19日目です。

アラフィフになった記念と、再就職1周年記念に、セキュリティエンジニアとして生きてきた半生を振り返ってみたいと思います。 別に面白くもないし参考になる話もありませんが、この歳で女でセキュリティエンジニアをやっています、というだけでも珍しいだろうと思って書きました。

幼少期〜就職まで

女性のこの手のエントリを見ると、割と幼少期から女性であることを理由に理系に進むことをよしとしないような圧力を受けている人が多い印象ですが、私は幸いにもその手の圧力はありませんでした。これは東京で育ったというのが大きいのかな。親戚関係でも、父方の祖母は薬剤師、母方は古くからの商売人で曽祖母の代から大学か短大に行っているため、性別と学歴を結びつけるような考え方をする人がいなかったのだと思います。高校は「影の四年制」(現役合格は少なくて予備校に入るのがデフォ)とか言われながらも進学校だったし、共学だったので、女だから大学には行かないとか考えたこともなかった。「女性が」ものを学ぶということを初めて意識させられたのは、大学に入ってから、学外で知り合った人たちに「なんで女なのに四大に行ってるの?」「自分は専門学校しか行かせてもらえなかったので羨ましい」と言われた時でした。まあ、それまでも何かあったのかもしれませんが、いろいろとにぶい人間だったのだと思います。そういうことを言われて驚いたというだけで、その後の人生に特に影響はありませんでした。

大学はCS専攻でしたが、勉強しないで遊んでばかりいました。ただ、将来を決める出来事がありました。私、エアロスミスが大好きで、ある年の春に来日が決まったのを前の年の夏に知って、「あ、英語勉強してスティーブンタイラーが何言ってるのかわかるようにしないと」と思い、大学の秋休みを利用してカナダに語学留学に行ったんです。で、外国って面白いんだなあというすごくざっくりとした印象を受けて、次の年に休学して最初の半年間バイトしてお金を貯め、後の半年間アメリカに語学留学することを決めました。この辺の思考回路は今の私にはよくわかりませんが、20そこそこの私には何かちゃんとした考えがあったのだと思います。
で、ある年の9月、アメリカのボストンに行きました。もちろんエアロスミス発祥の地です。
本当はそこで半年間語学学校に通うつもりでしたが、クラスメートの女の子が一人旅に行くというのを聞いて、「あ、私も行こう」と決めました。これはまあまあ理由を覚えていて、まず語学学校がつまらない。あとせっかく広いアメリカにいるんだからいろんなものを見てみたい。語学学校は2ヶ月で辞めて、グレイハウンドバスでニューヨークに行ったのを皮切りに、途中途中でホステルに泊まってサンディエゴまで、アメリカ横断一人旅をしました。その過程で、Hotmailで日本の友人とリアルタイムにやりとりできるとか、グレイハウンドバスの時刻表を一瞬で調べられるとか、インターネットの凄さを何度も実感させられました。

新卒でネットワークセキュリティの会社に就職

アメリカ横断一人旅の終盤、就活について考え始め、インターネットみたいにすごいものはいつまでも自由に、安全に使えるものであって欲しいという願いから、ネットワークセキュリティの会社に就職しようと決めました。リクルートの就職サイトができたばかりの頃で、「ネットワーク セキュリティ」というキーワードで検索したら、警備会社ともう一社のみ引っかかり、その会社に応募しました。2000年に就職という、就職氷河期の谷底でしたが、アメリカを放浪して英語が話せるようになっていたことと、インターネットの凄さ、それを守りたいという青臭いながらも明確な正義感を熱く語ったのがウケたのかもしれません。無事内定をいただき、社会人人生が始まりました。

黎明期だったため、いろいろな仕事が降ってきました。サーバ構築と要塞化、FW構築、脆弱性探しとシェルコード書き、セミナー講師、コンサルティング、あらゆることを短期間に一通り経験しました。毎日のように終電のゆりかもめで帰路につき、レインボーブリッジから東京タワーが消灯するのを眺めたものです。若い頃はそういう忙しい自分が面白かったりするんですよね。周りも大体同じ感じだったし。人には全く勧められませんが、この濃ゆい数年間でセキュリティの基礎を叩き込まれたことが、アラフィフでもセキュリティ業界で働いている原動力となっています。生存者バイアスですけれども。

青年海外協力隊

新卒で入った会社で数年働いて、なんとなく海外に住みたいとか稼ぎを気にせずIT教育がやりたいとか思い出して、青年海外協力隊に参加することにしました。なんか色々ドラスティックなことをしている割にきっかけが軽い。
青年海外協力隊というと、井戸を掘っているという印象がある人が多いかと思いますが、IT教育やシステム開発といったことをする「コンピュータ技術」という職種がありまして、それをやろうと応募しました。どうせ行くなら後々使えそうなフランス語かスペイン語圏で、でもアフリカは遠すぎるから中南米で。いや中南米も十分遠いんですけど。 で、無事合格しまして、エルサルバドルの工業高校でLinuxを教えることになりました。これも話すと長くなるしセキュリティとは関係ないので興味がある方はこちらをどうぞ。

脂の乗った時期

帰国後は半年近く国内外をフラフラしていて、国際協力の方に行きたい気もしつつ、でも他にできることもなく、セキュリティ業界に戻り、Web診断の会社とサイバー大学のTAを兼務しました。どちらも半年ほどしかいなかったのですが、そこでたくさんのセキュリティエンジニアと出会いました。ほとんどの方が、今でも最前線で活躍しています。中でも、結構大きなセミナーの案件でご一緒した方には、コンテンツ作成を通して、当時は悪名高かったでかいリボンが初めて実装されたWord2007の使い方をたっぷり教えていただきました。そのとき得た技術は、今でも重宝しています。

その二つの仕事の後は、正規雇用でセキュリティ関連の法人に入職しました。そこではガリガリとマルウェア解析をしたり結果の傾向を分析したりと、セキュリティエンジニアとしては最高に脂の乗っていた時期だったと思います。ただ残念ながら、自分には決定的に合わないIRっぽい仕事をアサインされてしまったばかりに、そしてそれを無理だと言えなかったばかりに、体を壊して退職することになってしまいました。

これは本当に手痛い教訓で、壊れてしまう前に無理だと言えば、組織は正職員を失うこともなく、私もあの職場で今でも仕事が続けられていたと思いますが、言えなかったんですよね。当時は仕事はお金をもらって辛いことを我慢することだと思っていたし、プライベートも全て仕事に捧げられる状況だったので。で結局、組織にとっても自分にとっても最悪の結果になってしまった。 結局ほんの数年しか働けなかった職場ですが、そこで生まれて初めて自分の文書作成能力をはっきりと評価されました。最初の会社では言葉で評価されるようなことはなかったし、自分の能力には全く自信がなかったため、とても嬉しかったのを覚えています。

地に足のつかない日々

仕事を続けることができず退職してしまいましたが、治療するうちになんとか回復してきました。で、辞めた職場が東京だったし地元でもあったのでそのときは東京に住んでいましたが、ふと「あれ、もう東京に住む必要なくね?」ということに気づき、そしてそんなタイミングで母校が契約職員を募集しているのを見つけてしまい即応募。即合格。即引っ越し。病気だったとは思えない行動力。母校は森の中にあるので、通うだけで心も身体も癒される日々。仕事はそれなりに難しく、なによりITとは全く関係のない、イベントの設営をするような仕事だったのですが、なかなかにうまくいって、各方面から褒められたので、「あ、なんかまた働けるかも・・」と思った矢先に東日本大震災があり、また無職となりました。

その後ポリテクに通ったり派遣社員をやったりとまたフラフラしていたところ、たまたま知り合いから、つくばの研究機関のセキュリティ部門で契約職員を募集しているということを教えてもらい、そこに就職。契約職員にもかかわらずファーストオーサーとして論文を書かせてもらったり、協力隊時代の教え子が通っていたコスタリカの大学でのLinuxカンファレンスの基調講演をしに行ったり、いろいろとやらせていただきました。そこでも文書作成能力が高く買われ、IPAのドキュメントを作らせてもらったりもしました。プライベートでも、CTF for Girlsでの講師やオライリーの翻訳など、いろんなところに顔を見せました。そんな中、病気で辞めてしまった組織の偉い人と再会し(業界が狭いので当時の同僚が知り合いだった)、そちらからも業務委託で在宅の仕事を回してもらったりもしました。この時に改めて「あなたの文書作成能力は、前ほど早く作れなくなってしまったとしても、必要とされる場所は必ずあるはずだ」と言われ、ここでもう自分の文書作成能力について謙遜するのは辞めました。私にはその能力がある。変に謙遜するとあの人に対しても失礼だと思うようになりました。

・・・と、充実はしていたのですが、メイン業務の研究機関は所詮は契約職員で長く働けないことは決まっていたのと、結婚したこともあり、一旦ちゃんと考えようと、研究機関を辞めることにしました。業務委託の方は続けるつもりだったのですが、退職直後に妊娠が発覚し、ハイリスクだったためそちらも辞めて出産時には完全なる無職に。妊娠も出産も出産後も本当に大変で、でもまあそれは夫と子供という他者が関わることなので細かくは書きませんが、出産後は半死半生状態で、とてもじゃないけど働けるような状態ではなくなってしまいました。

業務委託で社会復帰

数年かかりましたが、体調がなんとか回復してきて、ブログでも書くかと久しぶりにいろいろ調べて書いた記事がきっかけとなり、業務委託の話が舞い込んできました。内容は、ざっくりいうとセキュリティの仕事をしている人たちに話を聞いてそれを記事にするような仕事で、とても楽しかったし、昔一緒に仕事をしていた人と再会できてとても良い刺激になりました。ほぼ同時に、オライリージャパンの翻訳の仕事も始めました。このままフリーランスとしてゆるくやっていくのもいいのかなあとも思いましたが、やはり替えのきかない業務委託の仕事は体調的に難しく、というかまた倒れて仕事を全部投げ出すことになりそうなのが嫌で、特に新たに仕事を取ってくるようなことはせず、翻訳作業を細々と続けながらpwnableなどをやって過ごしていました。そこに新型コロナがやってきて、いろんなことが止まってしまいました。諸々乗り越え、2020年の夏、いよいよ今の会社に勤めるきっかけとなった就活を始めます。

就職活動

業務委託の仕事をしているうちに、セキュリティの仕事をもう一度ちゃんとやりたいという思いが再燃しました。学生時代に感じていた青臭い正義感はまだ消えておらず、というか子供ができて、セキュリティの仕事をすることで子供の未来が少しでも良くなるならこんなに嬉しいことはない、という新たな意義が加わりました。そして、私はやはり、業務委託のような形で一人で仕事をするのではなく、組織の一員として働きたい。あわよくば後続を育てたい。
そんな思いを募らせているところに、企業への出社自粛要請が出ているというニュースを見て、「これはひょっとしてフルリモートで企業に勤められるチャンスなのでは?」と思い至りました。
体調的に電車通勤は全く考えられず、というかすでに年内に茨城に帰ることを決めていたことから、東京の会社で働くことは完全に諦めていましたが、今ならフルリモート前提でも雇ってもらえるところがあるかもしれない。そう思って、まずはLinkedInのステータスをOpenToWorkにし、ハッカー協会に登録しました。で、連絡を待ちつつ昔勤めていたところに連絡してみるかと思っていたら、登録した次の日にハッカー協会から「ここどうですか」と連絡が来ました。はいはいと二つ返事でOKして、慌てて書類を作りました。

慌てて、といっても、職務経歴書は慎重に作り込みました。人材不足のセキュリティ業界とはいえ、もうアラフィフ目前、これがまともな条件で雇ってもらえる最後のチャンスであり、長く働けるところをちゃんと選ぼうと思ったからです。
40台で子持ちという同じような状況で転職したはせおやさいさんが書かれていた転職エントリコメントにも書きましたが、文書作成能力や文章力を評価されたこと、自分自身文章を書くのが好きだったことから、「セキュリティの知識があり文章も書ける人」としてアピールできる部分のみを職務経歴書に書き、面接でも一貫してそういうストーリーを話しました。それが希少な人材であることを知っていたからです。セキュリティの知識がある人はまあまあいます。ちゃんとした文章が書ける人は星の数ほどいます。でもセキュリティの知識がそこそこあって文章がそこそこ書ける人はそうそういません。もうIRのような突発的な仕事やマルウェア解析のような終わりのない仕事はしたくなかったというのもあります。
ということで諸々武装して面接に臨み無事内定。ちなみに最終面接だけは会社で対面で、ということで一年ぶりに電車に乗って都心に行ったら一週間後に帯状疱疹になりました。虚弱にも程がある。

現在

内定直後に帯状疱疹になって会社員として働く自信が0になりましたが、なんとか一年間寝込まずにやってこられました。
中途なので任される業務はかなり難しく、やることもたくさんあって忙しくしています。業務は調査して報告書を作るようなものが主なので、望み通りになっているかなと思います。
後輩もかわいい。セクハラになりそうなので表立っては言いませんがみんなマジかわいい。
当分は後輩の市場価値を上げることと、自分が長く働けるよう居心地の良い職場を作ること、業務以外にもこの二つはやっていきたいと思っています。

後輩の市場価値を上げるためにできることとして、私の数少ないコネである翻訳業務を会社に引っ張ってきました。ブログやGithubでもいいんでしょうが、やはりまだまだ紙媒体の影響力は強いです。一冊本を出せば、強力な名刺になります。また、カンファレンスでの講演やJNSAのような団体への参加も、希望する人には資料作成の支援などして後押ししていきたい。技術的なところはすでに私よりできる人たちなので、社外へのアピールになるような実績を増やしていって欲しい。あと、私がそうされて嬉しかったように、ちゃんと口に出して褒めること。褒めどころはいくらでもあるのでこれは難しくない。そして何より、自分が持っている文書作成能力を伝えること。業務的に必須の能力なのに、研修があるわけでもOJTで教えてくれるわけでもなく、これはなんとかしていきたい。私も体系的に学んだわけではないので、人に伝えるとなるとなかなか難しいのですが、「理科系のための英文作法―文章をなめらかにつなぐ四つの法則 (中公新書)」や「ビジネス文章力の基本 ダメ出しされない文書が書ける77のルール」などの市販の本など参考にしつつ、資料にまとめて部でお話ししたりしています。この資料は大変好評で、講義は急遽研修中の新人にも参加してもらうことになったりしました。来年度はちゃんと新人研修の一部としてやりたいと思っています。

自分にとって居心地の良い職場を作るというのもいろいろやっていますが、まず何よりも無理なものは無理と言うこと、これを絶対に忘れないようにしたい。入社時に人事にも言われたんですが、「我慢を続けて辞めるよりはわがままを言ったほうがいい」。若い頃は前述の通りその気になればプライベートも全部仕事に捧げられる状況だったから断りづらかったんですけど、今は体調や家庭環境から自分のリソースが限られていて、逆さに振っても出ないものは出ないので、そこはもう申し訳ないと思いつつ調整させてもらっています。
あとは、フルリモートではあるものの雑談する場を作るとか、業務のフローをちゃんと定義するとか、細々としたことをやっています。幸いその辺は必要と認められればどんどん採用される職場ですし、規模もまだ小さいのでやりやすい。独りよがりにならないよう気をつけつつ、これからもいろいろやっていこうと思っています。

終わりに

取り留めなく書いたら長くなってしまった。まあ45年分あるんだからこんなものか。
妊娠出産時は無職だったので、女性特有の何か、みたいな話はあんまりないんですよね・・。いや、セクハラはあったし女だから不愉快な思いをした、ということはたくさんあるんですが、ブログに書いて残したくないので書きません。タイトル詐欺ですいません。一つ言えるとすれば、女性セキュリティエンジニアの皆さんは、セクハラされたら戦うのも我慢するのも時間の無駄なので転職してください。弊社も絶賛募集中ですので、なんならDMください。セキュリティ業界はいま超売り手市場です。

ではこれで。また10年後に、「アラカン女性セキュリティエンジニアが生きる道」というのが書けるよう、精進したいと思います。

猫を愛でる人生

これは猫 Advent Calendar 2019の12月20日の投稿です。

https://www.instagram.com/p/BMET57KDaOY/
2017年2月にうちの子になったウィリアンです

書き物の仕事をしていて、参考として読んでいた「書くことが思いつかない人のための文章教室 (幻冬舎新書)」にこんな質問があった。

人間って何なのか、生きるって何だろう、そして人生とはーーみなさんならどう答えますか。

いまこの瞬間の話をすれば、大切な人たちがいて、仕事もしなければならず、生きる目的は明確である。でも生まれてからの四十数年という長いスパンで考えると、「あなたの人生とは」と聞かれたら、「猫を愛でること」のような気がする。ちょうど、アドベントカレンダーに「猫」というお題があったので、猫と自分の歴史を振り返ってみる。

私の記憶にある最初の猫は、祖母の家にいた茶トラのオスだ。名前は「メル」。親が共働きだったこともあり、学校の長期休みの時はほぼ最初から最後まで祖母の家で過ごしていた自分にとって、メルは唯一の遊び友達だった。年の近い親戚もいないし、祖母の家の方には友人はいなかったから。
当時の祖母の家には犬もいた。雑種の中型犬のポチと、甲斐犬のメスのコマ。ポチは人懐っこかったけど、小さい私には遊び相手になるには大きすぎて、飛びつかれて引き倒されるのが怖くてあまり近寄れなかった。コマはおとなしいメスだったけど、クールビューティで子供と遊ぶような感じの犬ではなかった。
子供が嫌いな猫が多いのに、メルは私の近くによくいてくれた。庭の大きな石の上に座るメルと、その横に立つ小学生の私の写真が残っている。猫じゃらしの振り方やブラッシングの仕方はメルから教わった。この技術は後々役に立つことになった。宿題の漢字練習帳の上にどっかりと寝転がりつつ私が持っている鉛筆にじゃれたり、私が振る猫じゃらしを追って障子の桟を駆け登ったり、何かと私を構ってくれた。
メルと最後に会ったのは小学校高学年の夏休みだった。特に変わった様子はなかったのだけど、その年の秋にフラリといなくなり、そのまま帰ってこなかった。メルと最後に撮った写真は今でも私の大のお気に入りだ。寝間着を着て椅子に座っているカメラ目線の私と、膝に乗って私を見上げているメルの写真。メルは目を細めて、とても愛情深い顔で私を見ていた。

その後も祖母はたくさんの猫を飼った。スラリとしたブチのオスのゲンさん、サビのタミー、二人の子供のモモ、ポッポ、みよ、マイケル、グレコ。みんな家と外を自由に出入りしていて(昔の田舎の話だ)、モモなんか他所の家で違う名前をもらってかわいがられたりしていたけど、私が祖母宅に行くときは全員必ず一度は顔を見せてくれた。猫ネットワークがあるのだと祖母は言っていた。別に顔を見せたからといって愛想をふりまくでもなく、放蕩者のゲンさんなんかは、「あ、よく来たよく来た」という感じでひと撫でだけ要求してすぐに去っていった。家からあまり離れなかったメルと違い、みんな外が好きだったみたいだ。メルは絶対に人を噛まなかったけど、猫たちがくつろいでいるときにコタツに足を入れると容赦無く噛まれた。猫の性格とか、生業にもいろいろあるんだな、と思った。

こんな具合に、小さい頃から猫は私にとって特別な存在だったのだけど、それを決定的にしたのは、社会人時代、長患いで休職して通院していたときだ。あるとき待合室で受付のおばさんに猫が好きだという話をしたら、近くの公園に地域猫がいるので帰りに行ってみたら?と言われた。いてもたってもいられなくなり、その日の帰りに早速足を伸ばした。

その公園はかなり広くて、大きな池があったり森のように木が茂っていたりして、通院以外ほとんど外に出ていなかった私には結構な散歩になった。そして猫たちがいた。白黒の猫が池を眺めていて、近くにベンチがあったので座ってみた。休憩しつつ猫をゆっくり眺めるつもりだった。座った途端に白黒が膝の上に乗ってきてゴロゴロいいだした。久しぶりに猫を心ゆくまで撫でた。
そうして、病院の後に公園に猫に会いに行くのが楽しみになった。いたりいなかったり、いてもさわれたりさわれなかったりしたけれど、猫とはそういうものだ。目があった瞬間に逃げる子もいた。茂みの中から突然現れて、「お前そこに座れ」とばかりに道を塞ぎ、膝に乗ってきて強引に撫でを要求する子もいた。いずれにせよ、当時は病気を治す理由が一つもなかったので、猫たちとの交流がなければ私は通院し続けることはできなかっただろう。元気になってきてからは、いろいろな公園に猫を探しに行くのが日課になった。外出のきっかけまで作ってくれたのだった。

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あれから十年近く経った。そしてうちにウィリアンが来た。彼はもともとパチンコ屋の餌やりさんから餌をもらっていた野良で、餌やりさんが亡くなったのを機に、NPO団体に保護された子である。他猫との付き合いがヘタで、一軒家を改築したシェルターでは人の休憩場所になっていた台所で過ごしていた。人間大好き、いたずらもせず、一人で過ごすのも上手。多頭飼いの予定はなかったし、昼間家に誰もいない時間がそれなりにあるうちでもやっていけそうな子だった。子猫の頃にカラスか何かにやられたらしい右目の摘出と縫合の手術にも耐え、うちにやってきた。

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野良時代はボス猫だったらしい

シェルター時代はパチンコ屋と同じ名前をつけられていたが、うちに迎える時に「ウィリアン」に変えた。プレミアリーグのチェルシーにいる選手から拝借した名前である。ちなみに彼の背番号は「22」だ(うちにウィリアンが来た当時。いまは10番)。

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ウィリアンがうちに来てから三年近く経つ。ウィリアンがいなかったら乗り越えられなかったことがたくさんあった。猫は空気を読むというけれど、ウィリアンは全く読まない。私がギャン泣きしていようが具合が悪かろうが、自分が撫でて欲しいときは膝の上にくるし、満足すれば去っていく。それが逆に嬉しかった。私がどんな風になろうと、ウィリアンの態度が変わらないということにすごく救われた。

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片目がないのは痛々しいのだけど、本人は全く気にしていないようだ。私がねこじゃらしをウィリアンの右側に振ってしまい見えなくなると、「ちょっと!うまくやってよ!」というように頭をプルプルして文句を言う。私なら無くしたものを思っていつまでもクヨクヨするだろうに、今持っているものだけでうまくやっている姿勢は尊敬に値する。

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そして全くもって信じられないくらいかわいい。

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寝ているときもかわいい。

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座っているだけでもかわいい。

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階段を降りるだけでかわいい。

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三年弱、毎日見ているのに見るたびに驚くほどかわいい。

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お膝の上に乗って撫でを要求されるのは至福のときである。腹だししても落ちないように頭を支えながら、お腹をもふもふしているときに私を見上げるウィリアンの細められた目を見ると、メルのことを思い出さずにはいられない。ウィリアンがメルの生まれ変わりだとかいうつもりはない。ウィリアンはウィリアン、メルはメルだ。ただどちらも同じような愛情を私に持ってくれているということなのだ。

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うちに来てまだ三年経っていないと書いたけど、野良時代がおそらく五年以上あり、シェルターで一年過ごしているので、少なくとも九歳近いはずだ。人間でいえば五十五歳。最近少し耳が遠くなったりしている気がする。少しでも長く、元気で楽しい時間を過ごしてもらえるよう、できる限りのことをしていきたい。
猫を愛でる人生はまだまだ続くのである。

4月4日はねぎし記念日

わたしの記念日は4月4日。日記をつけていたら、去年も今年も4月4日に「牛たん とろろ 麦めし」のねぎしに行っていることがわかったので、この日は毎年ねぎしに行くことにしました。ねぎし記念日です。

ねぎしとは

1981年創業、西新宿に本社を構える飲食店です。その名の通り牛たん、とろろ、麦めしが売り。都内に35店舗、横浜に4店舗あります。ねぎし圏の北端は池袋、南端は横浜、東端は錦糸町、西端は吉祥寺です。もう少し西に勢力を伸ばしてほしい・・。

www.negishi.co.jp

カンブリア宮殿に出たこともあります。

www.tv-tokyo.co.jp

ねぎしセットは正義

私が頼むメニューはだいたい「ねぎしセット(税込1,400円)」か「ブラッキーセット(税込1,400円)」です。セットには全てとろろ、麦めし、テールスープ、お新香がつきます。麦めしはおかわり自由です。

お店の名前を冠する「ねぎしセット」は牛たん5枚。牛たんをかじり、とろろをかけた麦めしをほおばればそこはもう桃源郷。テールスープもすっきりしていて長ネギのアクセントが効いている。ととろをご飯にかけるたびに(私は一度に全部はかけない派です)、次は牛たんかテールスープかと迷うたびに湧き上がる幸福感。まさに頑張った自分へのご褒美なのです。
悩ましいのは、麦めしの量が多いのでいつも半分にしてもらうのですが、牛たん、とろろ、お新香、全部ご飯力(食べたときに米を欲させる力)が高いので、油断すると途中で麦めしがなくなってしまうこと。最近は慣れたもので、牛たん、とろろ、麦めしを同時に食べ終え、お新香は食後にお茶とともに、という一連の流れができあがっていますが、最初の頃は麦めしを減らさずに頼んでみてお腹がパンパンになったり、あろうことか牛たんよりも先にとろろを食べ終えてしまったりと失敗したものです。

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正義のねぎしセット

「今日はもう少し味の濃ゆいものが食べたいなあ」というときに頼むのは「ブラッキーセット」です。甘しょっぱいタレにつけたカルビを焼いたもので、麦めしがすすみます。私はブラッキーセットを頼むときは麦めしは2/3にしています。ねぎしセット以上にご飯力が高いのです。

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ご飯力が高いブラッキーセット

「えっねぎしなのに牛たん食べないの?!」と思ったあなた、ご安心ください。ブラッキーと牛たんのうれしいコンビ、「ねぎし&ブラッキーミックスセット(税込1,500円)」もあります。過去の写真を集めてみたらこっちの方がよく食べているっぽい。

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よくばりなねぎし&ブラッキーセット

つくば市民が行きやすいねぎし5店舗を紹介

残念なことに、本当に残念なことに茨城県内にねぎしはありません。となると東京に出たときに行くことになるので、場所的に行きやすい店舗をご紹介。まずは全店舗の地図の載せておきます。

高速バスで上野駅または東京駅、TXで秋葉原駅を使う場合に行くねぎしは以下のとおりです。

ねぎし上野駅前店・ねぎし上野駅前B1店

上野駅前、マルイの隣にあるビルの2階と地下にあります。ここで紹介する中では最もアクセスの良いねぎしかと。高速バスを降りて歩道橋を登り、マルイの方に行けば看板が見えるのですぐに分かります。地下の方が空いていることが多いかな。関係ないですけどここはingressもポケGOも激戦区なので、食べた後の腹ごなしにちょっとだけ・・とかやってるとあっという間に1日が過ぎていくので注意が必要です。
不忍池口方面にUENO3153(サイゴーサン)店というのもあるらしいのですが行ったことがないので割愛。

ねぎし八重洲店

八重洲地下街の東の端にあります。高速バスを降りた後や乗る前に。ただ降り口からだと、後述する鉄鋼ビル店の方が近いです。駅から離れていてちょっと歩きますが、その分だいたいいつも空いていて待たされることはあまりないのでおすすめです。余談ですがこのねぎしに行く途中にある、神戸屋ベーカリー脇の階段を降りたところにあるトイレは穴場ですので覚えておくと緊急時に重宝します。

ねぎし東京駅八重洲北口鉄鋼ビル店

2年くらい前ですかね、新しくできたねぎしです。つくばからの高速バス降り場の最寄りはこちらになります。でもちょっと分かりにくいんですよねー。地下にあるのに駅に直結していなくて、食べ終えて駅に向かうときにいつも迷ってしまう。場所柄平日の昼間はかなり混みますが、休日は空いています。

ねぎし秋葉原店

TXで秋葉原まで来たときはここに行きましょう。ただここもちょっと駅から離れてるんですよねえ。秋葉原UDX側なのでTXの出口とは反対だし。最寄り駅は秋葉原でなく地下鉄銀座線の末広町です。お店が狭く、人通りが多いのでいつも混んでいます。でも長居するようなお店ではないので、ちょっと待てば入れることが多いです。一人で行くとカウンター率が高い。

ねぎしが好き

学生時代に新宿のねぎしに初めて行って以来、心の中にいつもいるねぎし。しょっちゅう食べるにはちょっとお高いけど、テンションを上げるのに気軽に行けるお店、ねぎし。最近すっかり胃腸が弱くなった私には、仕事の打ち合わせやイベントの前にエネルギーをしっかり取っておきたい、でもお腹を壊すリスクは避けたい、というときに行ける貴重なお店でもあります。カンブリア宮殿で紹介されていた通り、店員を大事にする社風らしく、どの店舗に行っても不快な思いをしたことがないというのもいいです。

返す返すも茨城県にないのが残念。マメにアンケートに「つくばに出店を〜」と書いてるんですけどね。つくば駅のキュートあたりに出店してくれないかなあ。あそこ定食屋って大戸屋くらいしかないじゃないですか。このクオリティでこの値段、かつ気負わずに行けるお店って少ないですよね。まあでも、ここぞというときのとっておきとして、多少行きにくいくらいがいいのかな・・。

今回のエントリを書くために公式サイトの店舗案内をじっくり見たところ、行ったことのない店舗が意外と多いことがわかったので、ねぎし記念日にはなるべく行ったことのない店舗に行くようにして、全店舗制覇を目指したいと思います。

鹿島アントラーズの小笠原満男が引退するということで、サッカーの思い出をつらつらと

サッカーが好きになったのは、2006年5月に行われたUEFAチャンピオンズリーグ決勝戦でバルセロナのベレッチが2点目を決めたときでした。

当時住んでいた中米のエルサルバドルは、学校の校庭ではみんながロナウジーニョの真似をし、クラシコの日はテレビがあるフードコートにたくさんの人が集まるような国だったので、2005年の終わり頃からなんとなくサッカーを見ていて、素人にもわかりやすくすごいロナウジーニョとエトーさんがいるバルセロナを応援していました。

その流れで見ていたUEFAチャンピオンズリーグ2005-2006の決勝戦、バルセロナ対アーセナルの試合で決勝点を決めたのは、ロナウジーニョでもエトーさんでもなくベレッチ··というか当時は名前も知りませんでしたが、あまり得点をしていなかった彼でした。決めた瞬間、ガッツポーズするでも笑顔で走り回るでもなく、膝をついて手で顔を覆い、動けなくなっているベレッチにひどく感動しました。そして次の瞬間チームメイトに押しつぶされもみくちゃにされるベレッチ··。みんな泣いていて。

この喜びの爆発はテレビ越しにもものすごいパワーがあって、すっかりサッカーが好きになってしまいました。その年はドイツW杯の年でもあり、特に思い入れもないけど日本人だから日本代表を応援することにして、ブラジルファンしかいない現地の人たちに混じって日本の旗を振りながら観戦するのも楽しいものでした。

帰国後、紆余曲折を経てつくばに戻り、自然と地元の鹿島アントラーズを応援するようになりました。といってもまだクラブと代表の区別もついておらず、そもそもテレビでJリーグの試合を見られる環境になかったので、サッカーからは遠ざかっていました。たまにNHK水戸でやってる試合を見るくらい。

そんなおり、つくば駅のQ'tでやっていたキャンペーンに当選して、鹿島スタジアムのチケットをいただきました。ちなみにこのとき「(座席図を見せられながら)サポータズーシートとカテゴリー3、どちらになさいますか?」「(よくわかんないけどせっかくならサポーターズシートがいいのかな?)じゃあサポーターズシートで」「···よっぽどのファンでない限りカテゴリー3の方がお勧めですが、大丈夫ですか?」「じゃあカテゴリー3でお願いします!」というやりとりがあり、あのときのお姉さん本当にありがとうございました。初手からサポーターズシートに行ってたら怖くて二度と見に行けなかったわ。

その試合はサンフレッチェ広島戦で、5-0だったかな、西がすごいミドルを決めて快勝した試合です。スポーツ観戦なんて中学生の頃に行った東京ドームの巨人戦以来で、見るもの全てが新鮮でした。なによりも驚いたのがサポーターズシートの熱気。巨大な旗を振ったりタオマフを掲げたり、ハーフタイム含め全然休まないの。本当にあの席を選ばなくてよかった···。広島がボールを持つと一斉に黙るのもすごい。沈黙の力。もちろん広島サポもいてチャントを歌ったり太鼓叩いたりしてるけど、沈黙の方が大きいの。敵ながらかわいそうになるほどのプレッシャー。アウェイのサポーターズシートは入り口も違うし入れるエリアが限られていることにも驚き。トラブル回避のためらしい。でもハーフタイムには、広島サポが自分たちが入れないエリアで売っているスタジアムグルメを鹿島サポに買ってもらっていたりと微笑ましい(のか?フェンス越しに金と商品のやり取りをするの不穏すぎる)風景も。*1 ちなみにこの試合にも小笠原は出ていました。

その後テレビで観戦できる環境になり、鹿島のとにかく勝つことにこだわる、というか勝てれば内容とかどうでもいいし、先制してればあからさまに時間稼ぎするし、それを相撲という伝統芸能に例えられるくらいの持ち芸に昇華しているという徹底したジーコスピリッツ、わっきー曰くジーコ汁ですね、それにすっかり魅了されました。CWC決勝戦、相手はレアルだというのに普段と全く変わらないのには本当にシビれました。

blog.livedoor.jp(相撲に関してはこの記事が一番好き)

小笠原について一番印象に残っているのは、2017年の天皇杯決勝で痛がって倒れていたところに憲剛が蹴ったボールが(おそらくたまたま)転がっていったら、ガバッと立ち上がってすごい勢いで憲剛に突進していったことです。ちょっとだらけた雰囲気だったのが一気に緊張感MAXになってて、ああなんて自分の役割を自覚してる人なのかしら··ステキ··となりました。

www.football-zone.net

他にも、後半始まって明らかに選手の顔つきが変わっているのを見て「ああハーフタイムに小笠原に怒られたんだろうなあ」とか、「クリロナって誰?」って言ってそうとか、準優勝でも十分すごいのに超怒ってる··とか、なにかと怖いキャラとして勝手に想像をたくましくして楽しんでおりました。

そんな小笠原が引退。全くもってそんな噂がない中で突然の宣言だったので驚きました。

www.calciomatome.net


悲願だったACLを獲り、最後のCWCで悔しい思いをして終わるというのは、本人もいう通り小笠原らしいというか。

最後クラブW杯で優勝してハッピーエンドで終わりたかったが、悔しいまま終わるっていうのも何か自分らしかったかな。

ibarakinews.jp

これを受けてチームメイトから愛の告白。

lineblog.me

中村憲剛もブログに書いています。

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愛されてますねえ。

まあもう年ですから、いつ引退してもおかしくはなかったんでしょうが、悲しい。あのいるだけで空気がピリッと引き締まる感じ、他の選手ではなかなか感じられないですよねえ。長い間小笠原がふるまっていたジーコ汁はこの先誰が給仕するんでしょう?キャプテンはうっちーになりましたが、顔が怖くない。西じゃ別の意味で怖いし··と思ったら西も神戸に移籍してるし··あの煽り力高い笑顔を向ける側から向けられる側になるのかと思うと悲しい。ゴールするとかならず相手を見てニッコリしたり、その場面でよくおしゃれパスとかできるな!っていう感じ、大好きだったんですが。昌子か植田が帰ってくれば間違いなくその役はやってくれるでしょうが、それまではどうするんだろう?キャリアと顔的には永木なのかな?

あとね、小笠原ね、引退試合はしないって噂なんですけど、そこはしようよー行くからさーやべっちFCとか出てるんだからそういうの嫌いじゃないでしょーやろうよーねええええ

*1:今調べたらこの試合は2014年8月2日、5-1で勝った試合でした。当時の広島の監督は現代表監督の森保、鹿島の監督はトニーニョセレーゾ。カイオ、ルイスアルベルト、西、ダヴィ、柴崎がゴール。

iやjを使いまくっていた学生時代、プログラミングのなにが難しかったのか考えてみました

なんかえらい叩かれてますけど私はとても楽しく読ませていただきました。

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読んでいて学生時代を思い出しました。私も卒論を書くまでこんな感じで全然できなかったなと。大学卒業後は刺身にタンポポを乗せる仕事ではなく、ITセキュリティの仕事に就いたんですけども。

ちなみにいまはRubyでSeleniumを使ってWebサイトをクロールして、得たデータをnattoなど使って処理し、Rでcosine類似度を計算してプロットする程度のことはできます!

初めてコンピュータを触ったのは小学生の時。幼なじみの家にMSXがあり、BASICだったと思うんですけど本の通りに打ち込んでヴェートーベンの曲が鳴ったり絵が描けたりするのにすっかり心を奪われてしまい、大学は特に迷わず情報専攻にしようと決めていました。

大学では、情報専用の24時間営業の端末室にSPARC Solaris*1のWSが100台くらいあって、Muleでメールを送ったりニュースを見たりする方法を学ぶ傍ら、だんだん各種ソートや巡回セールスマンの課題が出てきて、という感じ。ktermでコマンドを打ち込んだりするのはとっても楽しかったのですが、プログラミングの課題は完全にお手上げでした。

いま考えてみると、その手の課題では

1. 数学の問題を解く
2. アルゴリズムを考える
3. コードに落とし込む

を同時にやらなければならず、それが予備校出たてで家でPCを触っていたわけでもない学生には難しすぎたのかなと。
1はともかくとして、2はそもそもアルゴリズムってなに、な世界だし、なにより3がね、言語がCだったんですよ。型宣言がどーのとかポインタがどーのとか、もちろん個別には習ってるけど、1個1個で引っかかりまくり心が折れるわけです。

だからHTMLベタ打ちでホームページを作る授業は楽しかったし、卒論は意味検索エンジンを使ってPerlであれこれするもので、それも面白かった。Perlは型宣言しなくても動くんだ!楽!!と強く思った記憶があるので、よっぽどCでそこにハマってたんでしょうね。

2重for文の変数名i, jにしたら絶対途中で打ち間違えるだろ。お前は打ち間違える。そういうやつだ。

iとかjとかめっちゃ使ってたので笑ってしまった。でもこれね、例えばy=5x^2+8x+1という方程式をp=5q^2+8q+1とか書いてもOKって教科書にそれまで出会ったことがなかったわけですよ。x軸y軸をhorizontal軸vertical軸って書く先生もいなかったし。だから教科書*2でiとjが使われているなら、それ以外を使うとか全く想像しないわけです。変えた方がわかりやすいからそうするって考え自体がなかった。

例えば「キーボードから数値を10回入力し、それぞれの値を配列に格納して、最後に配列の値を逆順に表示せよ」みたいな問題が出てきたときに、「キーボードから値を入力する」「10回繰り返す」「配列に値を格納する」「配列の値を逆順に表示する」に分解できると思う

この問題も、卒論を書く前だったら「数値を10回入力」を「10回"繰り返す"」に変換できないだろうなと思う。それをスッと変換できるのはたぶんプログラムを書き慣れているからであって、日本語の読解力の問題ではないのではないかと。"同じ"数字を10回入力するというなら、繰り返しだと気づくかもしれないけども。
というか当時の自分ならそもそも「10回入力する」というのがどういう状態なのかわからない気がする。「入力」っていうから標準入力だろうなというのはかろうじてわかるけど、改行されたらそれを1回の入力とみなすって?うん、わからなかったろうね。

初心者って関数とかクラスとかめちゃくちゃ嫌うよね。ベタ書き至上主義というか、自分の目の届く範囲に全部置いときときたいというか。

関数をまともに使うようになったのも会社に入ってからだなあ。卒論のスクリプトはそこそこ長かったけど、ベタ打ちに近かった気がする。これは値を渡したり戻り値を使ったりする能力がなかったからだな多分。仕事でシェルコードの検証のためにrootkitぽいものを作るのにlsコマンドの再開発みたいなことをしなきゃいけなくて、そこで初めて「あ、これは関数というのが必要なやつだ」と実感できた。そういえばデータベースも、Excelの2次元では表現しきれない問題に直面して初めて「あ、これデータベースで解決できるやつだ」と思ったな。原始的な方法でめちゃくちゃ苦労して初めて、それを解決してくれる手法を身につける。やばいなにこれちょー便利ってなる。なんでこういう風に教えてくれなかったのかしら・・とかいったら当時の先生にガチ切れされるだろうなあ。最初からそういう風に教えてんだよおおおおって。

思い出すままにつらつらと書いてみて感じるのは、私は教える仕事は好きですがこんな学生の相手をしなければならない大学のTAとか絶対にやりたくないなってことです。報われない仕事だと思いますが、私はプログラマではないもののIT系でご飯を食べられていたので、当時教えていただいた皆さまには大変感謝しています。本当にありがとうございました。

*1:私はSPARCが好きです。固定長の命令のカッコよさ、delayed slotの様式美、レジスタウィンドウの素晴らしさたるや(以下略

*2:カーニハンのやつでした

つくば市がRPAを自治体で初めて全面導入するそうなので関連情報をまとめておく

そもそもRPAってなんぞや。

thefinance.jp

OSやアプリケーションをまたげるマクロという感じでしょうか。ログが取れるというのも大きなアドバンテージですね。(ログ解析ができる人がいるなら、ですが)

www.itmedia.co.jp

で、そのRPAをつくば市が自治体としては初めて全面導入することになったそうです。

prtimes.jp

市長のツイート。

「つくば公共サービス共創事業」、通称「つくばイノベーションスイッチ」と呼ばれる「行政ではまだ導入されていない技術の試験フィールドを提供」する事業の最初の公募で、NTTデータ、株式会社クニエ、日本電子計算株式会社の3社で共同研究を行います。

www.city.tsukuba.lg.jp

以下は市長のFacebookからの引用。そりゃあ人の手ではなく自動化したい作業だわ。

あくまで一例ですが、PCで作業したら、申請書をエクセルに手入力→データをコピペ→ワード立ち上げて個票に→地図検索→ファイルを開いて地図コピペ、とかいう作業がある

そんな作業こそ、ロボットの出番じゃないか、ここは世界の研究学園都市つくばだ、ということで始めたのが今回の共同研究

www.facebook.com

日経コンピュータ2018年2月15日号でも記事になりました。

tech.nikkeibp.co.jp

実証実験は今年1月から6ヶ月程度ということなので、結構早く結果が出そうですね。4月以降に今回の研究成果を公表する予定だそうです。

余談ですが現つくば市副市長はとてもお若い元官僚なんですよね。学生時代のインターンで五十嵐市長と出会い、市長選の初当選後に誘われて財務相を辞めつくばに来たとか。

www.businessinsider.jp

市長のビジョンを実現させる「COO型の副市長」として「改革」を着々と進めているが、意識しているのは「アジャイル行政」だという。

つくば市では2017年の当初予算で少なくとも5件の科学技術の実装できるように、パッケージとして予算を確保。RPAに関しても、全国で初めての地方自治体との「共同研究」だからこそ無料で導入することができ、素早く導入にまで至った。

どんな結果になるか楽しみです。

ある生徒の話

前の記事で少し書きましたが、エルサルバドルは治安の悪いところです。特に私がいた国立工業技術高校(INTI)は、マラスと呼ばれるギャング団の2大勢力の境界上にあり、銃撃戦や殺人事件があったりしました。学校は鉄条網つきの高い壁に囲われ、唯一出入りできる鉄格子の校門には、元山岳ゲリラの用務員と銃を持った私設警備員がおり、学校の近くで生徒が職務質問を受けるのも日常茶飯事。

そんな場所だったので、私が把握しているだけでも年に3、4人、学生が事件に巻き込まれて殺されていました。

生徒が亡くなると、クラスメートがその生徒の写真と空き缶を持って各教室を回ります。これこれこういう理由で自分のクラスの生徒が亡くなったので、カンパをお願いします、と。集まったお金は遺族に渡されます。

これは生徒が殺されても同じことで、全校集会もなし、カウンセリングもなし。生徒の中にはマラスに入る子もいるし、INTIの生徒とわかるとマラスに勧誘されることもあり、勧誘を断れば殺されます。歴史的に敵対している高校が市内にあり、街中でそこの生徒と鉢合わせると殺し合いになります。残念ながら生徒が殺されるのはそれほど珍しいことではありませんでした。(だから、生徒たちは学校外で制服を着ることは厳に禁止されています)

一度だけ、私の知っている生徒が犠牲になったことがあります。

INTIに配属されて数ヶ月経ったある日、電気科の子たちが、授業の一環でサンサルバドル火山の頂上にあるテレビなどのアンテナを見に行くというので、一緒に連れて行ってもらうことにしました。

私はINTI初の女性隊員というか、彼らにとってたぶん人生で初めて接するアジア人女性ということで学内では有名で、なんやかんやと話しかけられたりお菓子をもらったりして、生徒に囲まれて山を登りました。

その中で、私に道の花を摘んでくれた子がいました。

日本ではそんな光景滅多に見られませんが、エルサルバドルでは女性にそういうことをするのは割と普通にあって、他の生徒も母親や恋人のために花を摘んだり売店でお土産を買ったりしていました。

背が高くていかにも聡明な顔をしたその子は、大学に進学するんだか受験するんだか、まだ私のスペイン語力が未熟でよくわからなかったけど、とにかく勉強を続けるということでした。

そんな会話をして、お花をもらった1ヶ月後、その子は通学中のバスの中で殺されました。他の乗客の喧嘩に巻き込まれ、頭にナイフを柄まで刺されたそうです。

当時の私はまだ渡エル数ヶ月で、すでに病死した生徒のクラスメートがカンパに回ってきたことがあったのでその習慣は知っていましたが、あのとき一緒に山に登った子たちが、私にお花をくれた子の写真を持って教室に現れたとき、どう考えていいのか分かりませんでした。病気でも事故でもなく、殺された、と。

たまたま山に行ったときに彼とクラスメートを撮ったとてもいい写真があったので、お葬式に行くという同僚にそれを遺族に渡してもらうように頼みました。そのときに、どういう状況で殺されたかを聞きました。

通学中のバスで、というのは私の心をえぐりました。彼はあと3ヶ月で卒業だった。あと3ヶ月無事でいれば、そのバスに乗ることもなくそのまま生きられた。その子はマラスとはなんの縁もなかった子だけに、親御さんの無念を思うとたまらない。無事卒業していれば過ごせたはずの人生の重みを考えずにはいられない。

その事件以降、私はとにかく自分が受け持った生徒たちが死なずに全員卒業できるよう、それだけを祈っていました。私はよく生徒たちに、もう勉強しなくてもいいから生きて卒業して欲しい。地球の裏側からあんたたちをかわいがりにきたんだから、頼むからあんたたちの葬式に行くようなことになることだけはしてくれるな、とお願いしました。

1人、対立している高校の生徒と喧嘩して、爆弾を投げつけられて1ヶ月入院する羽目になったバカがいたけど、生徒たちは全員無事に卒業しました。あの学校にあっては、それもまた珍しいことなのかもしれない。

帰国後しばらくは、人が死ぬ映画やドラマが見られませんでした。通行人Aでも、作り話とわかってても、死ぬまでに積み重ねてきた人生と、死ななければ続いた人生が重過ぎる。だから震災で亡くなった人たちのことを思うと押しつぶされそうになる。どれだけの人生が理不尽に消えてなくなったか。残された家族が、どれほどの重荷を背負っているか。

私は「生きていればいいことあるよ」なんて言わない。人生は本当に不公平で、辛いことも嬉しいことも、たいていは突然降ってきて、自分ではどうしようもない。でも自分が死ぬことで、死ななければ続いた私の人生の重さに押し潰される人がいるかもしれないと考えるようになりました。

きっとその重さは、長く生きていくと減っていくのだろう。大往生した人のお葬式がそれほど暗いものにならないのはそのためかもしれない。だからできれば、「死ななければ続いた人生の重さ」が軽くなってから死ぬのがいい。

人の死や自分の死を考えるとき、私はあの子のことを思い出す。 今年であの子が亡くなって12年経つ。