トリコロールな猫

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想像力のない人は、人の苦手を無理やり克服させようとする

職場にカエルが嫌いな人がいる。過去のトラウマらしく、学生時代カエルの解剖の授業を免除してもらえたくらい、もうどうしようもないらしい。

彼女の席がある部屋には100円で買えるお菓子が置いてあり、お金を入れる貯金箱が偶然にもカエルの形をしている。

「これはピンチですね!」と冗談めかしていっていたのだが(さすがにそれは大丈夫らしい)、別の同僚が、カエル嫌いな彼女のためにカエルの顔の裏に目鼻をかいてクマに見えるようにしていて感動した。

frogtobear

たぶん、人間は2種類に分けられる。カエルの貯金箱をクマに見えるように変えてくれる人と、むしろ「こういうのから慣れていけば大丈夫になるんじゃない?!」とかいって他のカエルグッズまで持ってくる人だ。便宜のため、前者を「カエルクマ人間」、後者を「むしろカエル人間」とする。別にカエルと変えるをかけているわけじゃない。

私は「むしろカエル人間」が心から嫌いだ。

昔、デング熱になったことがある。あの病気は発症からの時間経過に合わせて症状が変わる。熱発->血小板減少->発疹->肝臓が弱るという感じ。

思いのほか辛かったのが、最後の肝臓への一撃。

肝臓の病気は、代表的な症状として「疲れやすくなる」というのが挙げられますよね。経験してみて分かったけど、これはなんかもうほんとにどうしようもなくダルい。私は元々体力がなく、ちょっと階段を上っただけでゼーハーいう人間ですが、肝臓からくる疲れは全く次元が違う。けど、うん、言葉にするならば、「疲れやすくなる」以外の何者でもない。それでも肝炎とかに比べれば全然数値はよかったわけで、本物の肝炎には絶対なりたくないと思ったわ。

でも肝臓の病気を経験したことがない人の中には、「疲れやすい?少し運動でもすればすっきりするよ!私もそういう時期あったけど、ヨガ始めたらすごい元気になったし☆」とくる人がいる。これが典型的「むしろカエル」人間だ。自分が経験したことがないことなのに、自分の経験に当てはめて「こうだろう」と断定する人。

人間は、自分の尺度でしかものを測れない。私だって、肝臓を悪くしたときにどう辛いかは想像できるようになったけど、たとえば心臓が悪い人の辛さは分からない。でも私は「むしろカエル」人間じゃない。「カエルクマ」人間であると思いたい。その差はどこにあるのか。

おそらくそれは、想像力の差だと思う。想像力ったって、別に何か新しい物を作るとか小説を書くとかいうのに必要なやつではなく、「自分には理解できないものもある」と認めるために必要な想像力。

カエルの話でいえば、「むしろカエル」人間は自分がそこまで嫌いなものがないために、「どんなに嫌いでも頑張れば受け入れられるようになる。私だってそうだし」と思ってしまうのだろう。

ちなみに「むしろカエル」人間の口癖は、「私も」「俺だって」です。そういう人、いるでしょう。

たいていの人は、カエルがそこまで嫌いだという話を聞いたら、「ふーん。そういう人もいるのか」程度で済む。「じゃあわざわざカエルの絵とか見せないようにしよう」と思う。

「むしろカエル」人間の厄介なところは、そこで引かないこと。人には人の一線があるということを、どうしても認められない。自分の尺度を押し付ける。

だから「むしろカエル」人間は毒親から逃れようとしている人に「でも親なんだから子供が大事なはず」というし、病気で苦しんでいる人に「俺だって大変だけど頑張ってるんだ」という。

そして、「むしろカエル」人間がいうことは、世間的には正論です。

たいていの人は、授業を免除になるほどカエルに拒否反応を示さないし、肝臓が悪くなったことはないし、親は毒親ではないし、苦しい病気になったこともない。「むしろカエル」人間には、知らないことは存在しないのと同意なのだ。

ほんの少しの想像力で、自分には知らないこともあるんだと気づくことで、人は他人に優しくなれると思う。ただ油断すると簡単に「むしろカエル」人間になってしまうことを私は自覚している。難しいけどいつでも想像力を持って人に接することができる人間でありたい。

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